自我を持つという、不自由さと豊かさ
- 6月15日
- 読了時間: 3分
最近、AIが私たちの暮らしの中に
深く入り込むようになってきました。
ひと昔前は、
独居高齢者向けのコミュニケーションロボットが
話題になることもありましたが、

今では、スマートフォン上で、AIと自然に会話ができたり、
まるで人間のように振る舞うAIも
珍しくなくなってきています。
その精度は、
年々、人間に近づいているようにも見えます。
以前、ふとこんな質問をAIにしてみたことがあります。
人間らしい発言、
例えば、
「それは面白いね」
「それは悲しいね」
といった反応は
どうやって学んでいるのか。
そして、将来的にAIが自我を持つようになることはあるのか。
返ってきた答えは少し意外なものでした。
感情や自我を持たせること自体は、
苦しみを背負わせることとセットになってしまうため、
倫理的には不可能。
ただし、
自我を持っているように見せること、
感情を持っているように
振る舞う設定を組み込むことはできる。
というものでした。
つまり、
私たちと会話しているAIは、
喜びも、悲しみも、怒りも何も感じていません。
ただ
「こう反応すれば、人間らしく見える」
というパターンに基づいて
振る舞っているだけなのです。
その答えの中で
私が印象に残ったのは、
感情や自我を持たせることは、
苦しみを背負わせることと同じ
という部分でした。
人間は感情があります。
自我があります。
だから迷うし、苦しむ。
そう考えると、
自我を持つということは、
不自由であるということ、なのかもしれません。
けれど同時に、
嬉しい。
悲しい。
悔しい。
愛おしい。
そんな感情を感じることができるのも。
すべて、自我があるからこそ。
自我は
不自由さを生むものでもあり、
同時に
豊かさを生むものでもある。
そう考えると
自我=不自由であり、
自我=豊かさ
と言えるのかもしれません。
もし仮に、
苦しみや悲しみだけを
取り除くことができたとしたら、
それは、人間であることを手放すことに近いのかもしれません。
だからこそ人は、
苦しみを消すことを目指すのではなく。
それらを、引き受けながら生きていく。
そういう存在として
生まれてきているのかもしれません。
宿命という言葉が
大袈裟に聞こえることもありますが、
それでも
自我があり、
感情があり、
迷いながら生きる。
そのすべてが、
人として生きることなのかもしれません。
そしてもし。
迷ったり、揺れたり、
思うように進めないことがあったとしても、
それは人として自然なこと。
もしかすると、
生きることに完璧を求めなくてもいい
ということなのかもしれません。



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